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星汀、と書く。
星と、汀。

「汀」は、水と陸が触れる場所をいう。

波が寄せればそこは水になり、引けばまた陸になる。

そこには確かに境界があるのに、その線はいつも揺れている。

私は以前、作品をつくるなかで、「あわい」や「境界」というものについて何度も考えた。

 現実 ── 記憶
 光 ── 影
 現在 ── 過去
 残ったもの ── 消えていったもの
 自分 ── 誰か

そのどちらにも完全には属さない境界に立ち、写真を拾う。

考え続けているうちに、それはひとつの作品だけの言葉ではなくなっていた。
いつの間にか、写真を見るとき、誰かを見るとき、世界を見るときの、

ひとつのまなざしになっていた。

写真もまた、どこか境界にあるものだと思う。

目の前にあるものを写しているはずなのに、シャッターを切った瞬間、それはもう過去になる。

確かにここにあったものが、少しずつ記憶のほうへ渡っていく。

写真は、その途中に残る。

残すためというより、過ぎていくものに触れるために、私は写真を撮っているのかもしれない。

そう考えたとき、「汀」という言葉は、

ずっと自分のなかにあった不明瞭な感覚に、ようやく輪郭を与えてくれた。

汀は、海だけにあるものではない。

湖にも、川にも、水と陸が触れるところには汀がある。

だからこの言葉に惹かれたのは、海そのものよりも、その境目にあるものだったのだと思う。

それでも、私の記憶のなかで汀を辿っていくと、いつもどこかで海へ行き着く。

海のない土地に生まれた私にとって、海は日常の景色ではなかった。

どこかへ行かなければ会えないもの。遠くまで行って、ようやく見えるもの。

だから海は、昔から少し遠い憧れだった。

不思議なことに、大切な友人の名前は来海という。

その名前にある海と、私が遠くに思っていた海は、いつからか静かに重なるようになった。

海はただの風景ではなく、遠くにあるものや、大切な誰かを思う場所になった。

昔から好きだった音楽のなかにも、夜と海と、波際の景色があった。

「スパンコールな波際」という言葉が、今も心に残っている。

暗い水面に、細かな光が散っている。

夜の海には、空と水の境目がなくなる瞬間がある。
星が水面に映れば、どちらが本物の光なのかもわからなくなる。

私は、そういう景色が好きだった。

空にある星と、水面にある星。どちらかを本物と決めなくてもいい。

光は水に触れ、揺れて、形を変えながら、そこにある。

そして、星。

星もまた、昔から変わらない憧れだった。

遠くにあって、夜にならなければ見えない。
手を伸ばしても届かない。

私は昔から、自分を太陽の側にいる人間だと思っている。

生まれた季節と、与えてもらった名前に宿るものが、ずっと私にそう思わせてきた。

だからなのかもしれない。

遠い星に惹かれる。

けれど、写真のなかではもっと単純だ。

星は、カメラの先にいるあなた。

星に近づいて、星そのものになるわけではない。
誰かを、自分の理解の中に取り込んでしまうわけでもない。

一つにならないからこそ、相手を見つめられる。

写真は、その距離をなくすためのものではなくて、
距離があるまま、その光を拾うものなのだと思う。

だから星汀は、単に「星のある水辺」という意味ではない。

遠くにある星と、足元にある汀。
私はそのあいだに立っている。

太陽の側に生まれた自分が、遠い星を見る。
足元では、水と陸の境界が静かに揺れている。
そしてカメラの先には、あなたがいる。

現実が記憶へ移っていくとき。
光が影と触れるとき。
現在が過去へ変わるとき。
残ったものの向こうに、消えていったものを思うとき。
自分と誰かのあいだに、心をふたつ感じるとき。

私はその境界に立って、写真を拾う。

そうして今、これまで拾ってきたものを置いていく場所に、
「星汀」という呼び名をつけることにした。

写真と、そのそばに残った光。
過ぎていった時間や、誰かの気配。
うまく名前をつけられないまま持ち帰ってきたものを、ひとつずつ、ここに置いていく。

星汀。

 

それは、境界で拾ってきたものを置いていく場所であり、
私たちの隠れ家なのです。

星汀、と書く。
星と、汀。

「汀」は、水と陸が触れる場所をいう。

波が寄せればそこは水になり、引けばまた陸になる。

そこには確かに境界があるのに、

その線はいつも揺れている。

私は以前、作品をつくるなかで、

「あわい」や「境界」というものについて何度も考えた。

 現実 ── 記憶
 光 ── 影
 現在 ── 過去
 残ったもの ── 消えていったもの
 自分 ── 誰か

そのどちらにも完全には属さない境界に立ち、写真を拾う。

考え続けているうちに、

それはひとつの作品だけの言葉ではなくなっていた。
いつの間にか、写真を見るとき、誰かを見るとき、

世界を見るときの、ひとつのまなざしになっていた。

写真もまた、どこか境界にあるものだと思う。

目の前にあるものを写しているはずなのに、

シャッターを切った瞬間、それはもう過去になる。

確かにここにあったものが、

少しずつ記憶のほうへ渡っていく。

写真は、その途中に残る。

残すためというより、過ぎていくものに触れるために、

私は写真を撮っているのかもしれない。

そう考えたとき、「汀」という言葉は、

ずっと自分のなかにあった不明瞭な感覚に、

ようやく輪郭を与えてくれた。

汀は、海だけにあるものではない。

湖にも、川にも、水と陸が触れるところには汀がある。

だからこの言葉に惹かれたのは、海そのものよりも、

その境目にあるものだったのだと思う。

それでも、私の記憶のなかで汀を辿っていくと、

いつもどこかで海へ行き着く。

海のない土地に生まれた私にとって、

海は日常の景色ではなかった。

どこかへ行かなければ会えないもの。

遠くまで行って、ようやく見えるもの。

だから海は、昔から少し遠い憧れだった。

不思議なことに、大切な友人の名前は来海という。

その名前にある海と、私が遠くに思っていた海は、

いつからか静かに重なるようになった。

海はただの風景ではなく、遠くにあるものや、

大切な誰かを思う場所になった。

昔から好きだった音楽のなかにも、

夜と海と、波際の景色があった。

「スパンコールな波際」 という言葉が、今も心に残っている。

暗い水面に、細かな光が散っている。

夜の海には、空と水の境目がなくなる瞬間がある。
星が水面に映れば、

どちらが本物の光なのかもわからなくなる。

私は、そういう景色が好きだった。

空にある星と、水面にある星。

どちらかを本物と決めなくてもいい。

光は水に触れ、揺れて、形を変えながら、そこにある。

そして、星。

星もまた、昔から変わらない憧れだった。

遠くにあって、夜にならなければ見えない。
手を伸ばしても届かない。

私は昔から、自分を太陽の側にいる人間だと思っている。

生まれた季節と、与えてもらった名前に宿るものが、

ずっと私にそう思わせてきた。

だからなのかもしれない。

遠い星に惹かれる。

けれど、写真のなかではもっと単純だ。

星は、カメラの先にいるあなた。

星に近づいて、星そのものになるわけではない。
誰かを、自分の理解の中に取り込んでしまうわけでもない。

一つにならないからこそ、相手を見つめられる。

写真は、その距離をなくすためのものではなくて、
距離があるまま、その光を拾うものなのだと思う。

だから星汀は、単に「星のある水辺」という意味ではない。

遠くにある星と、足元にある汀。
私はそのあいだに立っている。

太陽の側に生まれた自分が、遠い星を見る。
足元では、水と陸の境界が静かに揺れている。
そしてカメラの先には、あなたがいる。

現実が記憶へ移っていくとき。
光が影と触れるとき。
現在が過去へ変わるとき。
残ったものの向こうに、消えていったものを思うとき。
自分と誰かのあいだに、心をふたつ感じるとき。

私はその境界に立って、写真を拾う。

そうして今、これまで拾ってきたものを置いていく場所に、
「星汀」という呼び名をつけることにした。

写真と、そのそばに残った光。
過ぎていった時間や、誰かの気配。
うまく名前をつけられないまま持ち帰ってきたものを、

ひとつずつ、ここに置いていく。

星汀。

 

それは、境界で拾ってきたものを置いていく場所であり、
私たちの隠れ家なのです。

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